生津の人々を救った英雄


生津の人々を救った英雄

 

生津の地で水害から苦しむ人々を救った
西掘弥市(西堀貞夫の曽祖父)

 

西堀弥市【1854~1925】(西堀貞夫の曽祖父)は、秋の収穫を目の前にして、水でおおわれた田を前にため息をついた。
「また今年もだ。もう少しで収穫というのに水につかってしまい、米はとれない。人々の苦しむ様子が目に浮かぶようだ。」
生津(瑞穂市外宮町)は、長良川、糸貫川が流れる低湿地帯です。
雨が降り続くと、田畑どころか家の中まで水が入りこみ、何日も水が引かず、毎年水害に遭う土地で「カエルが小便しても溜まり水のつく所」とまで言われるほどでした。
水害で米が作れないため、農民の生活は苦しく、子供を売るような場所でした。

 

弥市は、生津の庄屋の子として1854年に生まれました。
幼い頃父を亡くし、母親のおうめに育てられました。
おうめは大変優しい人で、水害に遭った年は年貢を持ってきた農民に年貢の一部を分け与えていました。こうした心優しい母親に育てられた弥市は、水害に苦しむ人々を救うため、福知山の城跡の堀で育った柳栽培を見て、生津で柳が育つのではないか?と思いつきました。
その後、福知山から柳の苗木を購入し、糸貫川の湿地や田の荒れた地に植えたところ、予想以上に育つことが分かりました。

 

弥市は、柳を荒れた地に次々に植えて生産量を増やしていき、柳栽培は順調に成果をおさめました。そこで、弥市は、生津の水害に苦しむ人々が豊かになれば良いと思い、村の農家を訪れ柳栽培の利点を説明しましたが、誰も耳を傾けようともしませんでした。
その度は、弥市は落胆しました。
「どうしてみんなは、いっしょにやろうとしないのだ。」
苦悩の日々が続きました。

 

ところが、新聞が柳栽培が水害地域に適し、将来有望であることを取り上げたところから、弥市の柳栽培は急展開を迎えます。
新聞記事の後、弥市が岐阜県知事に柳栽培を奨励するよう意見書を提出したところ、採用され、それから生津の人々は我も我もと柳栽培を始めたのでした。

 

 

柳栽培が成功すると、弥市は、柳行李(やなぎごうり)を作り始めました。質の良い柳行李を作ろうと、明治31年自分の庭に当時では珍しい、3階建ての広々とした柳行李製造伝習所を自費で建て、柳行李職人を但馬から招きました。
この伝習所が伝えた技術は、生津地区から日本各地に広まっていきました。
1927年には、生津で戸数280戸、従業員800人に達し、製品はヨーロッパ、アメリカ、中国へ輸出されるほどにもなっていきました。弥市はロンドン博覧会、パリ博覧会で金賞を受賞しました。

 

 

弥市が72歳で息をひきとった後、弥市の功績であると感謝する人が集まり、糸貫川の堤防に記念碑まで建てられました。
しかし、戦後、プラスチックの製品に押され、柳行李は生産されなくなりました。
洪水の地、生津は全ての歴史を水に流してしまう場所なのでしょう。

 

 

 

 

西堀貞夫は、いくつもの開発をし、製品を世の中に出すことができたのも、この土地と、曽祖父から受け継いだ開発者の血が成せる技であったとこに気付いています。
西堀貞夫は、曽祖父と同じように、幼い頃に父を亡くしました。
軍医だった父は、軍の覚せい剤ヒロポンの使用方針に難色を示したことから戦地に派遣され、戦地ニューギニアのアイン(会社の名前の由来)で亡くなりました。
そして、母の協力が西堀貞夫を後押ししました。

 

今回は日本中、世界中の良識ある皆様にご理解、ご賛同いただいて、医学・音楽・エネルギーの世界を変えることが出来ました。
西堀貞夫は、曽祖父の血と思いを受け継ぎ、新しい技術開発と普及に挑戦しています。